戦国時代、武将たちがこぞって手に入れようとした地があります。それが現在の滋賀県、かつての「近江国(おうみのくに)」です。「近江を制する者は天下を制す」という言葉が残されている通り、この地は日本の歴史を動かす最重要拠点でした。
では、その歴史の舞台となった滋賀県には、一体いくつの城が存在していたのでしょうか? 有名な安土城や彦根城だけでなく、山々に築かれた砦まで含めると、その数は現代の私たちの想像を遥かに超えます。
本記事では、滋賀県に存在した城の数とその歴史的背景に迫るとともに、戦国ロマンを今に伝える名城の数々と、そこで数奇な運命を辿った歴代城主たちを詳しくご紹介します。
- 1. 滋賀県(近江国)にはいくつの城があったのか?
- 2. 滋賀県を代表する名城と歴代城主たち
- ① 観音寺城(かんのんじじょう):近江の名門・六角氏の巨大山城
- ② 小谷城(おだにじょう):浅井三姉妹の故郷と悲劇の舞台
- ③ 安土城(あづちじょう):織田信長が築いた幻の天下布武の象徴
- ④ 長浜城(ながはまじょう):豊臣秀吉の出世城
- ⑤ 坂本城(さかもとじょう):明智光秀が愛した琵琶湖畔の美城
- ⑥ 佐和山城(さわやまじょう):石田三成に「過ぎたるもの」と謳われた名城
- ⑦ 大津城(おおつじょう):関ヶ原の戦いの勝敗を分けた幻の水城
- ⑧ 八幡山城(はちまんやまじょう):豊臣秀次が築いた近江商人のルーツ
- ⑨ 水口岡山城(みなくちおかやまじょう):東海道を押さえる豊臣政権の要衝
- ⑩ 膳所城(ぜぜじょう):徳川家康が命じた最初の「天下普請」
- 3. 江戸時代への架け橋、国宝・彦根城
- 4. まとめ:城跡が語る滋賀県の深い歴史ロマン
1. 滋賀県(近江国)にはいくつの城があったのか?
結論から申し上げますと、滋賀県内には1,300ヶ所以上の城跡が確認されています。一つの県にこれほどの数の城が密集しているのは、全国的に見ても非常に特異な例です。
なぜ1,300以上もの城が築かれたのか?
「城」と聞くと、天守閣がそびえ立つ壮大な建造物をイメージされるかもしれませんが、1,300という数字の大部分は、土を盛って作られた「土塁(どるい)」や、敵の侵入を防ぐために掘られた「空堀(からぼり)」のみで構成された「山城(やまじろ)」や「砦(とりで)」、あるいは武将の居館を武装化した「館(やかた)」などです。
これほどまでに多くの城が築かれた理由は、近江国が持つ地理的・経済的優位性にあります。
- 交通の要衝であったこと東海道、中山道、北陸道という主要な街道が交差する近江は、京都(都)へ上るための最終関門でした。東国や北国から京都へ向かうには、必ず近江を通らなければなりません。そのため、街道沿いや国境の山々には、敵の侵攻を防ぐための城が密集して築かれました。
- 琵琶湖の水運日本最大の湖である琵琶湖は、大量の物資や人員を迅速に運ぶことができる「巨大な高速道路」の役割を果たしていました。この水上交通の利権を掌握することは、莫大な経済力を手に入れることを意味していました。そのため、湖岸には水運を管理・防衛するための「水城(みずじろ)」が多数築かれました。
- 豊かな農業生産力近江盆地は肥沃な土地が広がり、米の生産高が非常に高い地域でした。大軍を養うための兵糧を確保する上で、近江の穀倉地帯は喉から手が出るほど欲しい土地だったのです。
これらの理由から、土着の国人領主たちが自らの領地を守るために城を築き、さらに織田信長や豊臣秀吉といった天下人たちが巨大な城郭を築いた結果、1,300を超える城の密集地帯が誕生したのです。
2. 滋賀県を代表する名城と歴代城主たち
ここからは、1,300以上の城跡の中から、歴史の転換点となった重要な名城を厳選し、その成り立ちと歴代城主のドラマを詳しく解説していきます。
① 観音寺城(かんのんじじょう):近江の名門・六角氏の巨大山城
- 主な城主:六角定頼、六角義賢(承禎)、六角義治
- 所在地:近江八幡市安土町
観音寺城は、鎌倉時代から近江国南半分を支配していた名門(守護大名)・六角氏の居城です。標高432メートルの繖山(きぬがさやま)全体に無数の曲輪(くるわ)を配置した、日本最大級の山城として知られています。
特筆すべきは、織田信長が安土城を築くよりも前に、すでに総石垣造りの城郭であったという点です。最盛期を築いた六角定頼の時代には、城下町に「楽市」のような自由市場を設けるなど、非常に進んだ統治を行っていました。
しかし、1568年に足利義昭を奉じて上洛を目指す織田信長の軍勢に攻められ、当主の六角義賢・義治父子は戦わずに逃亡。そのまま廃城となりました。現在も山中には巨大な石垣がひっそりと残されており、当時の威容を偲ばせます。
② 小谷城(おだにじょう):浅井三姉妹の故郷と悲劇の舞台
- 主な城主:浅井亮政、浅井久政、浅井長政
- 所在地:長浜市湖北町
小谷城は、北近江を支配した戦国大名・浅井氏の居城であり、標高495メートルの小谷山に築かれた難攻不落の山城です。茶々(淀殿)、初、江の「浅井三姉妹」が生まれ育った城としても広く知られています。
三代当主・浅井長政は、織田信長の妹・お市の方を正室に迎え、織田家と強固な同盟を結びました。しかし、信長が浅井氏と長年の盟友関係にあった越前・朝倉氏を攻めたことで、長政は苦渋の決断の末に信長を裏切り、朝倉氏につくことになります。
その後、姉川の戦いを経て、1573年に信長の大軍によって小谷城は包囲されました。数ヶ月に及ぶ壮絶な籠城戦の末、小谷城は陥落し、長政と父・久政は自刃。浅井氏は滅亡しました。現在、城跡には土塁や石垣、堀切が良好な状態で残っており、「日本五大山城」の一つに数えられています。
③ 安土城(あづちじょう):織田信長が築いた幻の天下布武の象徴
- 主な城主:織田信長
- 所在地:近江八幡市安土町
安土城は、1576年から織田信長が天下統一の拠点として琵琶湖東岸の安土山に築いた、日本城郭史上における革命的な城です。それまでの城が「戦いのため」の実用的な軍事施設であったのに対し、安土城は「権力を見せつけるため」の政治的シンボルでした。
日本で初めて、内部が地下1階・地上6階建てとなる巨大な「天主(天守)」を持ち、その外観は金箔瓦や朱塗りの柱で彩られた豪華絢爛なものでした。城内には狩野永徳による壮麗な障壁画が描かれ、宣教師ルイス・フロイスも「ヨーロッパにもこれほど壮大な城はない」と絶賛しています。
しかし、1582年の「本能寺の変」で信長が横死した直後、原因不明の火災によって天主や本丸などの主要建築物はすべて焼失してしまいました。築城からわずか3年で灰燼に帰したことから「幻の城」と呼ばれています。現在は、山の斜面に一直線に伸びる大手道や、天主跡の礎石などが残り、国の特別史跡に指定されています。
④ 長浜城(ながはまじょう):豊臣秀吉の出世城
- 主な城主:羽柴(豊臣)秀吉、柴田勝豊、山内一豊など
- 所在地:長浜市公園町
長浜城は、浅井氏を滅ぼした功績によって北近江の領主となった羽柴(後の豊臣)秀吉が、1573年頃から築いた城です。秀吉にとって初めての持ち城であり、「出世城」として知られています。
もともとこの地は「今浜」と呼ばれていましたが、秀吉は主君・信長の一字をもらい受けて「長浜」と改称しました。秀吉は小谷城から城下町をまるごと移転させ、琵琶湖の水運を活かした町づくりを行い、長浜の経済的な基盤を築きました。
「本能寺の変」後、清須会議を経て一時的に柴田勝家の甥である勝豊が城主となり、その後は山内一豊などが城主を務めましたが、江戸時代初期に廃城となりました。建築資材の多くは彦根城の建設に転用されたと言われています。現在の長浜城は、1983年に犬山城や伏見城をモデルにして復興された模擬天守(長浜城歴史博物館)です。
⑤ 坂本城(さかもとじょう):明智光秀が愛した琵琶湖畔の美城
- 主な城主:明智光秀、丹羽長秀など
- 所在地:大津市下阪本
坂本城は、1571年の比叡山焼き討ちの後、織田信長の命を受けた明智光秀によって琵琶湖畔に築かれた水城です。ルイス・フロイスが「安土城に次ぐ天下第二の城」と記したほど、美しく壮大な城であったと伝わっています。
本丸が琵琶湖に突き出るように築かれ、城内から直接船に乗り降りできる構造になっており、水運の掌握と比叡山延暦寺の監視という重要な役割を担っていました。
しかし、1582年の「本能寺の変」の後、山崎の戦いで光秀が豊臣秀吉に敗れると、坂本城には光秀の娘婿である明智秀満が敗走して籠城しました。秀満は、堀秀政の軍勢に囲まれる中、光秀が収集した天下の名物(茶器や刀剣)が失われることを惜しみ、これらを敵方に引き渡した後、城に火を放って一族とともに自刃しました。現在、地上に当時の遺構はほとんど残っていませんが、渇水期になると琵琶湖の底から当時の石垣が姿を現すことで知られています。
⑥ 佐和山城(さわやまじょう):石田三成に「過ぎたるもの」と謳われた名城
- 主な城主:磯野員昌、丹羽長秀、石田三成など
- 所在地:彦根市古沢町
佐和山城は、中山道と北陸道が交わる交通の要衝・佐和山に築かれた城です。戦国時代前期から幾度も激しい争奪戦の舞台となりましたが、この城を最も有名にしたのは、豊臣政権の五奉行の一人・石田三成です。
1590年に佐和山城主となった三成は、大規模な改修を行い、山頂に5層(または3層)の壮麗な天守をそびえ立たせました。当時の人々は、「三成に過ぎたるもの(もったいないもの)が二つあり、島の左近と佐和山の城」と詠んで、その威容を称えました。
しかし、1600年の関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、小早川秀秋らの軍勢によって攻撃され、三成の父・正継らは激しく抵抗したものの落城。石田一族は滅亡しました。その後、徳川四天王の井伊直政が城主として入城しましたが、新たな拠点として彦根城の築城が決定されると佐和山城は徹底的に破却され、現在はわずかな土塁や石垣の痕跡が残るのみとなっています。
⑦ 大津城(おおつじょう):関ヶ原の戦いの勝敗を分けた幻の水城
- 主な城主:浅野長政、増田長盛、京極高次
- 所在地:大津市浜大津
大津城は、豊臣秀吉の命により、京都の防衛と琵琶湖水運の拠点として築かれた水城です。この城が歴史の表舞台に立つのは、1600年の関ヶ原の戦いの直前、「大津城の戦い」においてです。
当時の城主は、浅井三姉妹の次女・初を正室に持つ京極高次でした。高次は当初、西軍に属するふりをしていましたが、突如として東軍に寝返り、大津城に約3,000の兵とともに籠城しました。これに対し、毛利元康や立花宗茂ら約1万5,000の西軍部隊が大津城を猛攻撃。城は激しい大砲の砲撃を受け、天守も破損するほどの激戦となりました。
高次は数日間の籠城の末に降伏して開城しますが、この戦いによって西軍の精鋭1万5,000は関ヶ原本戦に間に合わなくなりました。大津城の粘りが、結果として徳川家康の東軍勝利に大きく貢献したのです。戦後、大津城は廃城となり、天守などの建築物は新たに築かれる膳所城や彦根城へと移築されました。彦根城の国宝・天守は、大津城の天守を移築・改修したものだという説が有力です。
⑧ 八幡山城(はちまんやまじょう):豊臣秀次が築いた近江商人のルーツ
- 主な城主:豊臣秀次、京極高次
- 所在地:近江八幡市宮内町
八幡山城は、1585年、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次によって、標高283メートルの八幡山に築かれました。安土城が廃城となった後、近江国の新たな支配拠点として整備された城です。
秀次は安土城下の住民を強制的に移住させ、「八幡山下町」を形成しました。琵琶湖と城下町を結ぶ運河「八幡堀」を開削し、楽市楽座を設けて商業を大いに奨励しました。これが、後に全国で活躍する「近江商人」発祥の基盤となります。
しかし、秀次が秀吉から謀反の疑いをかけられて高野山で切腹させられると、八幡山城も築城からわずか10年で廃城となりました。現在、山頂には秀次の菩提を弔うために母(秀吉の姉)が建立した瑞龍寺が移築されており、石垣群が良好に残っています。また、山麓の八幡堀や古い町並みは、現代でも美しい景観を保ち、時代劇のロケ地としても有名です。
⑨ 水口岡山城(みなくちおかやまじょう):東海道を押さえる豊臣政権の要衝
- 主な城主:中村一氏、長束正家
- 所在地:甲賀市水口町
水口岡山城は、豊臣秀吉の命により、東海道の重要な宿場町であった水口に築かれた城です。初代城主の中村一氏に続き、豊臣政権の五奉行の一人で、高い算術と財務能力を持っていた長束正家が城主となりました。
正家は城の改修と城下町の整備に尽力しましたが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属し、毛利秀元らとともに南宮山に布陣しました。しかし、吉川広家らの内通によって本戦に参加できないまま西軍は敗北。正家は居城である水口岡山城へ逃げ帰りましたが、東軍の池田長吉らに包囲されて開城し、自刃して果てました。
その後、城はまもなく廃城となり、江戸時代に入ると新たな拠点として近隣に「水口城」が築かれました。現在は「水口岡山城跡」として国史跡に指定されており、バルーンで実物大の天守を再現するユニークなイベントなども開催されています。
⑩ 膳所城(ぜぜじょう):徳川家康が命じた最初の「天下普請」
- 主な城主:戸田一西、本多氏など
- 所在地:大津市本丸町
膳所城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、豊臣家恩顧の大名が多い西国に睨みを効かせるため、そして京都の喉元である大津の地を押さえるために築かせた城です。1601年、家康が全国の大名に命じて築かせる「天下普請(てんかぶしん)」の第一号として完成しました。
琵琶湖に突き出た岬に築かれた美しい水城であり、「瀬田の唐橋」という京都への交通の絶対的要衝を監視する役割を担っていました。初代城主には家康の信任が厚い戸田一西(かずあき)が入り、その後も譜代大名(特に本多氏が長く統治)が歴代城主を務め、江戸幕府の重要拠点として機能しました。
明治維新後の廃城令により建物は取り壊されましたが、城門などは膳所神社などに移築されて現存しています。現在は膳所城跡公園として整備され、桜の名所として市民に親しまれています。
3. 江戸時代への架け橋、国宝・彦根城
これまで数多くの戦国武将たちの興亡を見てきましたが、滋賀県の城の歴史を語る上で、最後に行き着くのが彦根城(ひこねじょう)です。
彦根城:戦国の終わりと泰平の世の象徴
- 主な城主:井伊直政、井伊直継、井伊直孝ら井伊氏(譜代大名)
- 所在地:彦根市金亀町
彦根城は、徳川四天王の一人・井伊直政が関ヶ原の戦いの功績によって佐和山城に入封したことから始まります。直政は、石田三成の色彩が強く残る佐和山城を嫌い、琵琶湖畔の磯山や彦根山への移転を計画していましたが、関ヶ原での戦傷がもとで1602年に急死してしまいます。
遺志を継いだ長男の直継と次男の直孝が、徳川家康の命を受けた西国大名たちの手伝い普請(天下普請)によって築城を進め、1622年頃に完成させました。
彦根城の最大の特徴は、「リサイクル建築」の極みである点です。
短期間で強固な城を築くため、前述した大津城から天守を、佐和山城や長浜城から石垣や建築資材を、さらに小谷城や観音寺城の部材までもが集められ、再利用されたと言われています。つまり、彦根城は滋賀県に存在した数々の「戦国の名城のDNA」をすべて受け継いだ、集大成とも言える城なのです。
明治時代の廃城令の際、多くの城が解体される中で、彦根城は明治天皇の巡幸の際にその保存が命じられ、奇跡的に取り壊しを免れました。今日では、美しい天守が国宝に指定されているほか、天秤櫓や太鼓門櫓など多くの重要文化財が現存し、世界遺産登録を目指す取り組みも進められています。
4. まとめ:城跡が語る滋賀県の深い歴史ロマン
いかがでしたでしょうか。
「滋賀県に1,300以上もの城があった」という事実だけでも驚きですが、その一つひとつに、織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、石田三成といった歴史上のスーパースターたちの野望と挫折、そして一族の悲劇が刻まれています。
戦国時代、近江の地を制覇することは、文字通り天下へ手を伸ばすことと同義でした。
現在はその多くが山中の石垣や土塁を残すのみとなっていますが、その場に立って目を閉じれば、数万の大軍が駆け抜けた地鳴りや、武将たちが思い描いた天下の夢が蘇ってくるかのようです。
国宝・彦根城で江戸時代の息吹を感じた後は、安土城跡で信長の幻影に思いを馳せ、小谷城跡で浅井家の悲劇を偲ぶ……。滋賀県は、県全体が壮大な「戦国時代の野外博物館」と言っても過言ではありません。ぜひ実際に滋賀県へ足を運び、これらの名城の痕跡を巡りながら、歴史の重みとロマンを肌で感じてみてください。




