慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」において、徳川家康率いる東軍が勝利を収めました。しかし、この関ヶ原の本戦からわずか数十キロ離れた琵琶湖の畔で、「東軍の勝利を決定づけた」と言っても過言ではないもう一つの激戦が繰り広げられていたことをご存知でしょうか。
それが「大津城の戦い」です。
大津城(現在の滋賀県大津市)に籠城した東軍の将・京極高次(きょうごく たかつぐ)は、わずか3,000の兵で、九州が誇る無双の猛将・立花宗茂(たちばな むねしげ)らを擁する西軍1万5,000の猛攻を1週間以上にわたって耐え抜きました。大津城自体は最終的に陥落(開城)してしまいますが、この局地戦こそが日本史の大きな分岐点となったのです。
本記事では、関ヶ原の戦いの勝敗を分けた「大津城の戦い」について、その背景、両軍の思惑、凄惨を極めた攻防の詳細、そして戦いが歴史に与えた影響を、余すところなく詳しく解説していきます。
1. 大津城の戦いとは?なぜ大津が狙われたのか
大津城の戦いを深く理解するためには、まず大津という土地の重要性と、籠城を決意した大名「京極高次」の数奇な運命を知る必要があります。
交通の要衝「大津」の戦略的価値
大津は、東海道と中山道という二つの主要街道が合流し、さらに琵琶湖の水運をも掌握できる「交通の最大の要衝」でした。ここを抑えることは、京都(天皇がいる都)への入り口を封鎖することを意味します。 豊臣秀吉もこの地を極めて重要視しており、坂本城を廃城にしてまで、わざわざ水城として大津城を築かせました。西軍(石田三成方)にとっても、東軍(徳川家康方)にとっても、大津城は畿内の防衛線を構築する上で絶対に無視できない生命線だったのです。
「蛍大名」と呼ばれた男・京極高次の決意
大津城の城主であった京極高次は、名門・佐々木京極氏の当主です。しかし、戦国時代を生き抜く中で彼の家は一度没落しかけていました。彼が再び大名として返り咲くことができたのは、彼の身内である女性たちの力が大きかったと言われています。
- 姉(または妹):松の丸殿(竜子) … 豊臣秀吉の側室
- 正室:お初(常高院) … 浅井三姉妹の次女。姉は淀殿(秀吉の側室)、妹は江(徳川秀忠の正室)
美女揃いであった身内の女性たちが天下人の寵愛を受けたことで、高次も出世を果たしました。しかし、当時の世間は彼を冷ややかに見ており、「女性の光(七光り)で尻を光らせている」という皮肉を込めて「蛍大名」と揶揄していました。
武将としてのプライドを深く傷つけられていたであろう高次。彼にとってこの関ヶ原の戦いは、己の武力と知略で天下に名を轟かせ、「蛍大名」の汚名を返上するための千載一遇の好機だったのです。
2. 騙し討ちからの籠城戦!東軍・京極高次の周到な罠
慶長5年(1600年)8月、石田三成率いる西軍が挙兵し、畿内は西軍の制圧下に入りました。大津城も周囲を西軍の勢力に囲まれて孤立無援の状況に陥ります。
偽りの西軍従軍と大津城帰還
当初、京極高次は西軍からの要請に表面上は応じ、大津城から出陣して北陸方面の西軍部隊に加わりました。しかし、これは彼のカモフラージュでした。高次は密かに徳川家康と内通しており、東軍として戦うことを決意していたのです。
9月2日、高次は「軍勢の殿(しんがり)を務める」と称して部隊の最後尾に下がり、翌9月3日の未明、東野(現在の滋賀県長浜市)から突如として軍を反転。琵琶湖を船で渡り、大津城に帰還して籠城の構えを見せました。
領民も巻き込んだ総力戦の準備
高次が大津城に入ったという急報は、西軍に大きな衝撃を与えました。大津城に東軍の拠点ができてしまえば、西軍は背後を脅かされ、大垣・関ヶ原方面での戦いに集中できなくなります。
大津城内には、高次の麾下の将兵に加え、大津の町人たちも運び込んだ物資とともに城へ逃げ込みました。高次が町人たちを大切に治めていたため、領民たちは彼を慕い、炊き出しや防戦の補佐を自ら志願したと伝わっています。こうして、約3,000の兵力で西軍の大軍を迎え撃つ準備が整いました。
3. 圧倒的戦力差!西軍1万5千の包囲網
大津城の裏切りに激怒した西軍は、直ちに大軍を大津城へ差し向けます。西軍の総大将・毛利輝元の名代である毛利元康を総大将とし、西国の精鋭たちが大津城を包囲しました。
参戦した主な西軍武将
- 毛利元康(もうり もとやす):大津城攻めの総大将。毛利輝元の叔父。
- 立花宗茂(たちばな むねしげ):豊臣秀吉から「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と絶賛された九州随一の猛将。
- 小早川秀包(こばやかわ ひでかね):毛利元就の九男。鉄砲隊の指揮に長ける。
- 筑紫広門(つくし ひろかど):九州の歴戦の武将。
その総兵力は約15,000人(資料によっては最大4万人とも)。対する大津城側はわずか3,000人。戦力差は5倍以上であり、常識的に考えれば大津城は数日で陥落するはずでした。
水城「大津城」の堅牢さと致命的な弱点
大津城は、琵琶湖の水を引いた多重の堀を持つ「水城(みずじろ)」であり、歩兵による強行突破が非常に難しい構造をしていました。実際、包囲軍は押し寄せたものの、水堀に阻まれて容易には城壁へ近づくことができませんでした。
しかし、大津城には地理的な致命的弱点がありました。それは、城のすぐ背後に長等山(ながらやま)や園城寺(三井寺)のある山塊が迫っていることです。戦国時代初期の弓矢での戦いであれば問題ありませんでしたが、時代は鉄砲と大砲の時代へと移行していました。高台を取られれば、城内を完全に丸裸にされてしまうのです。
4. 地獄の大津城攻防戦(9月7日〜14日)
9月7日、ついに西軍による大津城攻撃が開始されました。ここから約1週間にわたる凄惨な防衛戦が幕を開けます。

開戦と夜襲(9月7日〜11日)
序盤、城方の士気は非常に高く、赤尾伊豆守や山田大炊といった京極家の家臣たちは水際で西軍の猛攻を何度も跳ね返しました。
9月11日の夜には、城兵が決死の覚悟で夜襲を敢行します。彼らはなんと、西軍最強と恐れられていた立花宗茂の陣営に斬り込み、立花軍の赤旗を3本奪い取るという見事な武功を挙げました。これにより、城内の士気は最高潮に達します。しかし、この挑発が、猛将・立花宗茂を本気にさせてしまいました。
立花宗茂の「早込」による無双の射撃(9月12日)
激怒した(あるいは冷静に戦術を切り替えた)立花宗茂は、西軍の主力を率いて本格的な攻勢に出ます。ここで宗茂が用いたのが、養父・立花道雪が考案したとされる「早込(はやごめ)」という鉄砲の連射技術でした。
当時の火縄銃は、火薬と弾を銃口から一発ずつ込めるため、次弾発射までに数十秒の時間がかかりました。しかし立花軍は、あらかじめ一発分の火薬と弾をセットにした竹筒(早合)を用意しており、通常の他家の鉄砲隊のなんと3倍の速度で一斉射撃を繰り返したのです。
息つく暇もないほどの凄まじい銃弾の雨が城壁に降り注ぎ、大津城の守備兵たちは防戦するどころか、鉄砲狭間(銃眼)の窓を閉じて身を隠すことしかできなくなりました。
長等山からの「大筒」砲撃!地獄と化した城内
そして、大津城にとって最も決定的な一撃が加えられます。立花宗茂らは、城の背後にそびえる長等山(長等山陣所)の高台に大筒(大砲・石火矢)を運び上げたのです。
長等山から大津城の本丸までは約1キロメートル。当時の大筒でも十分に着弾する距離でした。山の中腹から大津城を見下ろす形で、天守や本丸に向けて大砲が次々と放たれました。

轟音とともに放たれた砲弾は、大津城の屋根を打ち砕き、天守を破壊しました。弾は本丸の奥深くにまで届き、城内で待機していた女性たち(お初の侍女など)にも死傷者が出たと記録されています。空から巨大な砲弾が降り注ぐという前代未聞の事態に、城内は悲鳴が響き渡る阿鼻叫喚の地獄絵図と化しました。
さらに西軍は、刈り集めた大量の竹や木材を束ねて水堀に投げ込み、堀を強引に埋め立てて土塁に取り付き始めました。圧倒的な武力と物量の前に、大津城の命脈は尽きようとしていました。
5. 矢文と和平交渉、そして開城へ(9月13日〜15日)
天守はボロボロに破壊され、堀も埋められ、ついに落城は時間の問題となりました。しかしここで、思わぬ方向から和平調停が持ち込まれます。
高台院(北政所)の使者と立花宗茂の情け
大津城内にいる高次の正室・お初は、豊臣家にとって極めて重要な女性(淀殿の妹)でした。彼女や高次を死なせることを惜しんだ豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)は、使者として側近の孝蔵主(こうぞうす)を派遣します。また、高野山や三井寺の高僧たちも大津城に入り、両軍に停戦と開城を説得して回りました。
この時、西軍の最前線で猛攻を加えていた立花宗茂も、高次の奮戦を武将として高く評価していました。宗茂は自軍の弓の名手である世戸口政真に命じ、「城を明け渡すならば、高次殿の命は確実に保証する」という内容の矢文(やぶみ)を射込ませました。この矢文は、見事に城内で翻る高次の馬印に突き刺さったと伝わっています。
苦渋の決断と開城(9月15日)
使者からの説得、そして立花宗茂からの降伏勧告を読んだ京極高次は、ついに決断を下します。自分に従ってくれた家臣や領民の命を守るため、彼は降伏を受け入れました。
慶長5年(1600年)9月15日、高次は大津城を開城。一命を助けられた彼は、頭を丸めて出家し、数名の家臣とともに木食上人に伴われて高野山へと上っていきました。敗軍の将として、切腹や処罰を待つための隠遁でした。
西軍は大津城を制圧し、局地的な勝利を収めました。毛利元康や立花宗茂らは、意気揚々と主力軍が待つ関ヶ原方面へと進軍を開始します。
しかし、彼らはまだ知る由もありませんでした。大津城が開城したその日、9月15日こそが、関ヶ原本戦の決行日であったことを。
6. 勝敗を分けた「空白の1万5千」
大津城の戦いが「関ヶ原の戦いの勝敗を決定づけた」と言われる最大の理由は、この「タイムラグ」にあります。
立花宗茂や毛利元康、小早川秀包らが率いていた1万5千の部隊は、西軍の中でも極めて精強な主力級の部隊でした。特に立花宗茂は、野戦において無敗を誇る天才的な戦術家です。 しかし彼らは、京極高次が立てこもる大津城に足止めされ、1週間以上の貴重な時間を浪費させられました。彼らが大津城を開城させ、関ヶ原へと向かおうとした9月15日の夕刻、すでに関ヶ原の戦いは「東軍(徳川家康)の圧勝」という形で終わっていたのです。
もし、京極高次が大津城で籠城せず、立花宗茂ら1万5千の精鋭部隊が関ヶ原の本戦に間に合っていたらどうなっていたでしょうか。 当時、関ヶ原における西軍の主力(石田三成、宇喜多秀家ら)は小早川秀秋の裏切りがあるまで東軍と互角以上に戦っていました。そこに無傷の1万5千が、東軍の側面や背後から突撃していたとしたら……。歴史研究家の中でも、「立花宗茂が関ヶ原に間に合っていれば、西軍が勝っていたか、少なくとも徳川軍に再起不能なほどの甚大な被害を与えていた」と推測する声は少なくありません。
京極高次は、局地戦である大津城の戦いには敗れました。しかし、「西軍の精鋭1万5千を本戦から完全に隔離する」という、戦略的においてこれ以上ないほどの特大の戦果を東軍にもたらしたのです。
7. 戦いのその後:大津城と武将たちの運命
徳川家康による京極高次の大抜擢
高野山に身を潜めていた京極高次ですが、関ヶ原の戦いが終わった直後、徳川家康から急使が飛んできます。家康は高次の功績を誰よりも正確に評価していました。
「大津城での奮戦があったからこそ、我が軍は関ヶ原で勝利できたのだ。直ちに下山せよ」
家康からの最大限の賛辞とともに呼び戻された高次は、若狭国(現在の福井県)の小浜藩8万5千石(後に9万2千石に加増)という大封を与えられました。戦国時代において、城を落とされて降伏した大名がこれほどの大出世を遂げるのは極めて異例のことです。 高次は自らの命を懸けた籠城戦により、「蛍大名」という屈辱的なあだ名を自らの手で見事に払拭し、京極家を近世大名として確固たる地位に導いたのです。
大津城の解体と国宝・彦根城への移築
激戦の舞台となった大津城は、戦後に廃城となりました。家康は新たに膳所城(ぜぜじょう)を築き、大津城の建物を解体して各地に再利用しました。 特に有名なのが、ボロボロになりながらも耐え抜いた大津城の天守です。この天守は、井伊家が築いた彦根城の天守(現在の国宝)として移築されたという説が有力です。(※近年の昭和の解体修理の際、彦根城天守の部材に他の城から移築された痕跡が多数見つかっており、大津城の物である可能性が高いとされています)。
現在、大津城の遺構はほとんど残っていませんが、京阪電車「びわ湖浜大津駅」のすぐ近くの歩道橋下に「大津城跡」の石碑がひっそりと建てられており、当時の面影をわずかにしのぶことができます。
立花宗茂の数奇な運命
一方、高次を攻め落とした立花宗茂は、関ヶ原の敗報を聞くと大坂城へ退却。その後、領地である柳川(福岡県)へ戻り、東軍の侵攻に対して徹底抗戦の構えを見せますが、最終的には黒田官兵衛らの説得に応じて開城し、改易(領地没収)されて浪人となってしまいました。 しかし、彼の武勇と高潔な人柄は東軍の武将たちからも深く愛されており、後に徳川家康・秀忠親子によって大名として召し抱えられ、最終的には旧領である柳川藩10万石に奇跡の復帰を果たします。大津城での高次との堂々たる戦いぶりが、敵味方を超えた評価を生んでいたのかもしれません。
まとめ:敗北によって勝利を掴んだ男の執念
関ヶ原の戦いといえば、石田三成と徳川家康による本戦や、小早川秀秋の裏切りばかりが注目されがちです。しかしその裏では、大津城という小さな水城で、日本の歴史を左右する壮絶なドラマが展開されていました。
- 西軍最強の1万5千を相手に、わずか3千で徹底抗戦した京極高次。
- 長等山からの大筒射撃や早込で、最新の戦術を見せつけた立花宗茂。
- 本戦と同じ「9月15日」に開城するという、神の悪戯のようなタイミング。
京極高次は戦いに敗れ、城を失いました。しかし、彼が稼いだ「1週間の時間」こそが、徳川家康に天下をもたらした最強の盾となったのです。戦略というマクロな視点で見れば、大津城の戦いの真の勝者は、間違いなく京極高次でした。
滋賀県大津市を訪れる機会があれば、ぜひ琵琶湖畔に立つ「大津城跡」の碑や、大筒が放たれた長等山に足を運んでみてください。今では静かな湖畔の風景の中に、日本の歴史を決定づけた男たちの熱い執念と、激しい砲撃の轟音が隠されているのを感じることができるはずです。




