琵琶湖の漁業において、全体の漁獲量の4割から5割という圧倒的なシェアを占める最重要資源が「アユ(コアユ)」です。アユといえば清流でコケを食む姿を想像しがちですが、琵琶湖のコアユは独自の生態を持っており、滋賀県の郷土料理や全国への種苗(稚魚)供給源として極めて重要な役割を担ってきました。
しかし現在、このコアユがかつてないほどの深刻な危機に直面しています。過去には年間2,000トン以上漁獲されていたコアユが、近年ではその10分の1近い水準にまで激減し、生態系のバランスが根底から揺らいでいるのです。本記事では、琵琶湖のコアユが直面する現状について、長年にわたる統計データに基づく漁獲量の推移を紐解くとともに、気候変動や自然災害、そして目に見えない外来プランクトンの脅威など、激減をもたらした複合的な原因について深く掘り下げて解説します。
1. 琵琶湖のコアユとは:独自の生態系と全国を支える文化的・経済的価値
琵琶湖のコアユの現状を理解するためには、まずその特異な生態と、日本の漁業全体に果たす役割を把握する必要があります。
コアユの特異な生物学的特徴
一般的なアユは、秋に川で生まれて海に下り、春に再び川を遡上して大きく成長する「両側回遊型」の生活史を持ちます。これに対し、琵琶湖のコアユの大半は海へ下らず、一生を湖内で過ごす「陸封型」として生活します。湖の中には岩に付着する藻類が少ないため、コアユは湖内を遊泳しながら主にミジンコなどの動物プランクトンを捕食して成長します。
この食環境の違いと、広大な湖という閉鎖環境に適応した結果、コアユは成魚になっても体長が10cm前後にしか成長しないという特徴を持っています。小柄で骨が柔らかいため、丸ごと飴煮(佃煮)や山椒煮、天ぷらなどにするのに適しており、特有のほろ苦さと香りが楽しめる滋賀県の特産品として古くから愛されてきました。興味深いことに、遺伝的には一般的なアユと同一であり、このコアユを他県の河川に放流すると、石のコケを食べるようになり、通常の大きなアユへと成長します。
全国の河川を支える「種苗」としての重要性
琵琶湖のコアユは、滋賀県内の食用として消費されるだけでなく、全国の河川へ放流される「種苗(稚魚)」としての圧倒的な需要を持っています。年間約100トンから200トンもの活アユが種苗として全国各地へ出荷されており、これは日本全国の河川放流用アユ苗の約20%を占めています。
すなわち、琵琶湖のコアユ資源の枯渇は、単に滋賀県内の漁業問題にとどまらず、全国のアユ釣り(遊漁)産業や内水面漁業全体に深刻な打撃を与える、日本全体の問題なのです。
2. コアユ漁獲量と推定資源量の推移:ピーク時から過去最低水準への軌跡
琵琶湖では、エリ漁(定置網)やヤナ漁、沖島などで盛んな独自の刺網漁(細目小糸漁)など、伝統的な漁法でコアユが漁獲されてきました。しかし、その漁獲量は長期的な視点で見ると劇的な減少の一途をたどっています。

昭和から平成にかけての長期トレンド
琵琶湖全体の総漁獲量(魚類、貝類、エビ類を含み、外来魚を除く)は、昭和30年(1955年)には年間10,616トンというピークを迎えていました。その後、環境の変化に伴い全体量は徐々に減少していきましたが、アユ単体の漁獲量に焦点を当てると、1990年代初頭までは年間2,000トンから2,500トン程度の高い水準を維持していました。例えば、平成5年(1993年)の総漁獲量は1,572トンであり、平年値をやや下回るものの安定した漁獲がありました。
しかし、平成4年(1992年)以降、推定資源量は明確な減少傾向に転じます。特に平成17年(2005年)以降は、資源量が2,000トンを下回る年が度々発生し、恒常的な資源の低迷期へと突入しました。
以下の表は、琵琶湖におけるコアユを中心とした漁業の歴史的な推移を示したものです。
| 年代・対象年 | アユ(コアユ)の漁獲量・推定資源量 | 琵琶湖の全体漁獲量・特記事項 |
| 1950年代 | 豊富な水産資源が存在 | 昭和30年、全体漁獲量のピーク(10,616トン) |
| 1990年代 | 約 2,000 トン前後で推移 | アユ漁獲のピーク期(1991年が最大) |
| 2013年(平成25年) | 推定資源量 949 トン | 前年の産卵数激減(7億粒)が影響し資源枯渇 |
| 2018年(平成30年) | 推定資源量 747 トン | 親魚の成長不良による産卵数激減(2.7億粒) |
| 2021年(令和3年) | 漁獲量 270 トン | 全体漁獲量788トンのうち約34%を占める |
| 2023年(令和5年) | 漁獲量 264 トン | 前年比17%減。全体漁獲量も733トンと低迷 |
| 2024年(令和6年) | 記録的な不漁ペース | エリ漁解禁直後から過去最低水準での推移 |
2024年〜2025年の最新動向:記録的な不漁とその地域差
直近のデータはさらに深刻です。令和6年(2024年)生まれのコアユは、極めて危機的な不漁に見舞われています。同年12月のエリ漁解禁直後の水揚げは、過去最低のペースで推移しました。
明けて2025年に入ると、春から夏にかけて一部の地域でわずかな回復の兆しが見受けられました。たとえば、北湖南部のエリ漁では6月にかけて1日あたり1漁協で60〜190kg、一部のヤナ漁では5月中旬以降に100〜800kg以上のまとまった水揚げが記録されています。さらに、沖島などを中心に行われる刺網漁においても、2025年7月は1日約8kgと低迷したものの、8月には約25kgに増加し前年を上回る瞬間もありました。
しかし、これらの回復は極めて局所的なものであり、北部のエリなどでは依然として厳しい不漁が続いています。湖内での地域的なばらつきが極めて大きく、安定した漁獲には程遠いのが現状です。
3. コアユ激減を招いた複合的な原因:生態系の異変と環境破壊
コアユの減少は、単に「獲りすぎたから」といった単純な理由によるものではありません。琵琶湖の生態系全体のバランスが崩れたことによる、複数の致命的な要因が重なり合って起きています。
原因1:見えない外来種「プランクトン」による食物連鎖の破壊と餌不足
コアユの資源量が低水準に陥る最大の根本原因として「湖内での餌不足」が指摘されています。この餌不足を引き起こしているのが、琵琶湖のプランクトン相の異変、とりわけ外来植物プランクトンの異常発生です。
近年、南半球(オーストラリアやニュージーランドなど)を原産とする大型の緑藻類「ミクラステリアス・ハーディ(Micrasterias hardyi)」が琵琶湖で確認されるようになりました。この植物プランクトンは2011年頃に初めて発見され、秋から冬にかけて増殖することが確認されています。ミクラステリアス・ハーディは大きさが約0.2mmと、植物プランクトンとしては非常に大型です。そのため、コアユの主食であるケンミジンコなどの動物プランクトンがこれを捕食することができません。
その結果、「大型植物プランクトンの増殖 → 動物プランクトンの餓死・減少 → 動物プランクトンを餌とするコアユの餓死・成長不良」という食物連鎖の崩壊が起きています。栄養状態が悪化したコアユは、産卵期になっても成熟サイズに達しなかったり、1匹あたりの抱卵数が極端に少なくなるため、翌年の資源量が壊滅的に減少するという悪循環に陥っています。実際に、平成24年(2012年)の天然産卵数は7億粒、平成29年(2017年)にはわずか2.7億粒にまで落ち込みました(平年値は約70億粒)。
原因2:記録的な豪雨と高時川の「濁水」による産卵床の泥化
コアユの産卵は、9月から10月にかけて琵琶湖に流入する河川の下流域で行われます。清浄な水が流れる粒径5〜25mm程度の礫(小石)の浅瀬が必須条件です。中でも、姉川とその支流である高時川は、滋賀県内で最も重要なコアユの産卵河川として知られています。
しかし、令和4年(2022年)8月5日に発生した記録的な豪雨により、高時川の上流域で大規模な土砂崩れが発生しました。これにより長期間にわたって濃い泥水(濁水)が河川へ流入し続け、産卵床となる河床の砂利が厚い泥で覆い尽くされる「泥化」の事態となりました。アユの卵は泥を被ると呼吸ができず窒息して死滅してしまいます。
この濁水の影響は壊滅的であり、令和4年の姉川水系での産卵数は59億粒に落ち込み、翌令和5年にはわずか15億粒にまで激減しました。過去の他県の事例(高知県物部川など)を鑑みると、このような大規模な土砂流入による河床の悪化は、自然回復までに5年から10年以上という長期間を要する可能性が高く、今後の再生産への深刻な足かせとなっています。
原因3:気候変動に伴う河川の高水温化と渇水
秋季の気象条件も産卵の成否に直結します。コアユの産卵に適した水温は18℃前後とされていますが、近年の地球温暖化や異常気象の影響により、秋になっても気温・水温が十分に下がらない年が増加しています。
たとえば、記録的不漁となった2024年(令和6年)生まれのコアユについては、産卵期における姉川の「記録的な高水温」が致命傷となりました。これにより天然河川での産卵数が平年比45.7%の32.6億粒にまで落ち込んだことが、不漁の最大の要因と分析されています。さらに、秋の少雨による渇水が重なると、河口部の水位が著しく低下し、産卵場そのものが干上がって消失してしまうという問題も頻発しています。
原因4:カワウおよび外来魚による圧倒的な食害
ブラックバスやブルーギルといった外来魚による捕食問題に加え、近年内水面漁業に極めて深刻な打撃を与えているのが「カワウ」による食害です。
カワウは1羽あたり1日に約500gの魚を捕食すると推定されています。琵琶湖周辺に1万羽のカワウが生息していると仮定した場合、年間で消費される魚の量は約1,800トンにも達します。以下の表は、漁獲量とカワウの捕食量のバランスの崩れを示しています。
| 比較項目 | 推定規模・数値 | 備考 |
| カワウの年間捕食量 | 約 1,800 トン | 1万羽×500g/日で算出 |
| 近年の全体漁獲量 | 約 700〜800 トン | 令和3年(788トン)、令和5年(733トン) |
| 過去の全体漁獲量 | 10,000 トン超 | 昭和30年代は捕食圧を吸収できていた |
かつて年間1万トンの漁獲があった時代であれば、生態系全体でこの捕食圧を吸収できていたかもしれません。しかし、全体の漁獲量が1,000トンを下回る現在の琵琶湖において、1,800トンという捕食量は水産資源を根本から枯渇させかねない致命的な脅威となっています。
原因5:漁場環境の構造的な悪化(ヨシ帯の減少と湖底の泥化)
琵琶湖自体の環境変化も無視できません。魚類や貝類の産卵・生育の場であり、水質浄化の役割も果たす「ヨシ帯」の減少、一部水域での水草の過剰な繁茂、そして湖底の泥化や貧酸素化が進行しています。これらは琵琶湖の基礎的な「生産力」を低下させており、コアユのみならずセタシジミやニゴロブナなど、あらゆる湖魚の生息環境を悪化させています。
4. 漁業コミュニティの存続危機:沖島の苦境と社会的波及効果
コアユの激減は、琵琶湖周辺の漁業コミュニティそのものの存続を危ぶませる事態に発展しています。
その象徴が、近江八幡市の沖合約1.5kmに浮かぶ琵琶湖最大の島「沖島」です。周囲約6.8km、約230人が暮らすこの島は、世帯の約85%が沖島漁業協同組合に加入する、全国でも珍しい淡水湖の漁業の島です。沖島では毎年3月から8月初旬にかけて、深夜に出航し、特製の金属製足場に網を引き上げて揺すってコアユを落とすという独自の刺網漁(細目小糸漁)が夫婦船によって営まれてきました。
しかし、漁獲量の不安定化と過酷な自然環境、異常気象による悪天候が重なり、漁師たちの「コアユに対する気持ちが離れていく」状況が生じています。かつて150人いた沖島漁協の正組合員は現在75名に半減し、平均年齢は70歳代と極端な高齢化が進んでいます。
獲れない日々が続けば、漁師の収入は断たれ、漁具を製造する業者の廃業や、佃煮などの加工業者の廃業も連鎖的に発生します。漁業者の減少は、日常的に湖面に出る人間がいなくなることを意味し、外来魚の駆除活動や湖岸の保全活動の担い手消失にも直結します。コアユの激減は、琵琶湖と人との共生関係そのものを破壊しつつあるのです。
5. 資源回復に向けた最新の取り組みと未来への対策
こうした絶望的とも言える状況を打破するため、滋賀県、水産試験場、そして漁業者が一丸となり、科学的知見に基づいた多角的な対策が進められています。
1. 人工河川を活用した産卵環境の完全コントロール
自然河川での産卵が、高水温、渇水、そして高時川のような濁水によって失敗するリスクを回避するため、滋賀県は昭和50年代から琵琶湖総合開発事業の一環として「姉川人工河川」および「安曇川人工河川」を整備・運用しています。
これらの人工河川は、コアユの産卵に最適な環境を人工的に再現した巨大施設です。敷砂利の粒径(5〜25mm)、水温(18℃前後)、水深(10〜20cm)、流速(約50cm/s)が大型ポンプや温水・冷水配管によって完璧にコントロールされています。秋季に琵琶湖から親魚を捕獲してこの施設に放流し、産卵・ふ化させた仔魚を安全に琵琶湖へ流下させています。
| 人工河川施設 | 産卵床の仕様 | 設備と流下仔魚の目標 |
| 姉川人工河川 | 延長193m / 幅3.0〜6.0m / 敷砂利20cm | 温水・冷水用導水管による水温調整。平常時の目標:24億尾 |
| 安曇川人工河川 | 延長653m / 幅7.3m / 敷砂利20cm | 直径500mm斜流ポンプ等による厳密な流速管理。異常時の目標:最大70億尾 |
天然の産卵数が著しく低下した近年(2012年、2017年、2023年など)は、この人工河川への親魚放流量を大幅に増強しています。特に記録的高水温に見舞われた2024年(令和6年)には、当初予定の12トンの親魚に加えて急遽8トンを追加放流(計20トン)し、52.1億尾のふ化仔魚を流下させるという緊急の増殖措置が取られました。さらに、湖内での初期餌不足を回避するため、仔魚を流下させるタイミングを遅らせたり分散させたりする運用改善も図られています。
2. 「湖底耕耘(こていこううん)」による漁場生産力の抜本的回復
動物プランクトンの減少という根本的な「餌不足」問題に対処するため、水産試験場と地域組織が連携し「湖底耕耘」の実証研究が進められています。これは、農業でトラクターを使って畑を耕すように、船から特殊な鋤(すき)を下ろして湖底の泥を定期的に攪拌する取り組みです。
長年湖底に堆積し、よどんでいた窒素やリンなどの栄養塩を水中へ巻き上げて回帰させることで、優良な小型植物プランクトンの増殖を促し、それを食べる動物プランクトンを増やし、最終的にコアユへと繋がる食物連鎖を根底から活性化させる狙いがあります。
3. 厳格な資源管理と保護水面の指定
資源保護の観点から、法的な管理体制も強化されています。毎年8月21日から11月20日まではアユの「採捕禁止期間」に設定され、秋の産卵へ向かう親魚を徹底的に保護しています。また、産卵場となる主要8河川(姉川、安曇川、知内川、石田川、塩津大川、天野川、犬上川、和邇川)の下流域を「保護水面」に指定し、9月1日から11月30日までの期間は一切の水産動物の採捕を禁止するという極めて強い措置が講じられています。
今後は、改正漁業法に基づき、スマートフォンアプリ「湖(うみ)レコ」などを活用した正確な日々の漁獲データの収集が進められます。これらの科学的データに基づいてアユを新たな「資源管理方針」の対象魚種に加え、漁業者による自主的な休漁期間などを盛り込んだ「資源管理協定」の締結が推進されています。若手漁師の育成に向けた「後継者育成事業」も沖島などで着実に進んでおり、次世代へバトンを繋ぐ努力が続けられています。
結論:生態系の全体最適を見据えた未来へ
琵琶湖のコアユが直面している激減の危機は、単なる「一時的な不漁」では片付けられない極めて深刻な事態です。外来プランクトンによる食物連鎖の変化、豪雨災害による産卵環境の泥化、気候変動による高水温化、そしてカワウによる食害といった、多次元的な環境変化が複雑に絡み合った結果として引き起こされています。
現在進められている人工河川での大規模な増殖対策や湖底耕耘、厳格な資源管理といった取り組みは、コアユという資源を完全に枯渇させないための重要な防波堤です。しかし、これらを将来にわたって持続可能な資源とするためには、森(上流域の土砂管理と防災)、川(清浄な産卵環境の整備)、湖(水質とプランクトン相の回復)を一体として捉えた包括的な生態系保全が不可欠です。私たち消費者が琵琶湖の現状を正しく認識し、環境保全の取り組みを社会全体で支援し続けることこそが、豊かな湖の幸を100年後の未来へ残すための確実な一歩となるでしょう。




