三井寺の「三井の晩鐘」にまつわる伝説:琵琶湖の龍神と響き合う歴史の音

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滋賀県大津市に佇む天台寺門宗の総本山、園城寺(三井寺)は、1300年以上の歴史を持つ古刹です。その境内にある「三井の晩鐘」は、近江八景の一つとして知られ、日本三銘鐘の一つにも数えられる美しい音色の梵鐘です。1996年には環境庁(現・環境省)の「日本の音風景百選」にも選ばれ、その澄んだ響きは訪れる人々の心を静かに揺さぶります。この記事では、三井寺の梵鐘にまつわる伝説、特に「三井の晩鐘」と初代の「弁慶の引摺り鐘」を中心に、その歴史と物語を紐解きます。

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三井寺と「三井の晩鐘」の概要

三井寺は、正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といい、686年に創建されたとされます。天智・天武・持統の三帝の産湯に使われた霊泉「閼伽井屋(あかいや)」にちなんで「三井寺」と呼ばれるようになりました。 琵琶湖の南西、長等山の中腹に広がる広大な敷地には、国宝の金堂や重要文化財の鐘楼など、多くの文化財が残されています。中でも「三井の晩鐘」は、夕暮れ時に琵琶湖畔に響くその音色が、歌川広重の浮世絵「近江八景」にも描かれ、詩情あふれる情景として知られています。

三井の晩鐘 2021/2/11撮影

現在、鐘楼に吊るされているのは二代目の梵鐘で、1602年(慶長7年)に三井寺長吏・准三宮道澄の発願により、豊臣家の支援を受けて鋳造されました。この鐘は、初代の「弁慶の引摺り鐘」を模して作られ、108の「乳」(表面の突起)が特徴で、除夜の鐘の108回にちなんでいます。重さ約2250kg、口径約124.8cm、総高約208cmと、堂々たる姿を誇ります。 毎日17時に鳴らされるこの鐘は、参拝者が冥加料800円で撞くことができ、特別御朱印「三井晩鐘」と由来書が授与されます。

初代の梵鐘:弁慶の引摺り鐘伝説

三井寺の梵鐘には、初代と二代目それぞれに魅力的な伝説が残されています。まず、初代の梵鐘にまつわる「弁慶の引摺り鐘伝説」は、歴史と伝説が交錯する物語です。この梵鐘は奈良時代に作られたとされ、現在は霊鐘堂に安置されています。口径123.2cm、総高199.1cm、重さ2250kgの大型の鐘で、奈良時代のものとしては東大寺に次ぐ大きさを誇ります。

弁慶鐘 2014/04/11撮影

この鐘は、平安時代の武将・藤原秀郷(俵藤太)が、琵琶湖の龍神から贈られたものとされています。秀郷は三上山の大ムカデを退治した功績により、龍神から美しい音色の鐘を授かり、これを三井寺に奉納しました。この物語は、まるで竜宮城から持ち帰られた宝物のような神秘性を帯びています。

しかし、この初代の鐘にはもう一つの有名な伝説があります。それが「弁慶の引摺り鐘」です。武蔵坊弁慶は、比叡山延暦寺の僧侶として知られ、源義経の忠臣として多くの伝説を持つ人物です。三井寺と延暦寺は同じ天台宗ながら、仏教解釈の違いから山門派(延暦寺)と寺門派(三井寺)に分かれ、しばしば対立していました。この対立が武力衝突に発展した際、弁慶は三井寺の梵鐘を奪い、比叡山まで引きずって持ち帰ったとされます。

三井寺の梵鐘を比叡山まで引きずって持ち帰る武蔵野坊弁慶 (ChatGPTで作成)

伝説によると、弁慶が比叡山でこの鐘を撞くと、「イノー、イノー」(関西弁で「帰りたい」)と鳴り響いたため、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか」と怒り、谷底に投げ落としたといいます。その後、鐘は三井寺に戻され、霊鐘堂に安置されました。実際に鐘には引きずられたような傷やヒビがあり、弁慶の怪力伝説を裏付けるかのようです。 また、1814年の「近江名所図会」には、この鐘が三井寺に凶事が迫る際に汗をかき、音を出さなかったと記されており、寺を鎮護する「霊鐘」とされています。良いことが起こる時には自然に鳴るという神秘的な逸話も残っています。

二代目の梵鐘:龍神と三井の晩鐘伝説

現在鐘楼に吊るされている二代目の梵鐘にも、琵琶湖の龍神にまつわる切ない伝説が伝わっています。この物語は、三井寺の「三井の晩鐘」がなぜ毎日夕刻に鳴らされるのか、そして大晦日の除夜の鐘が108回に限らず多くの人に撞かれる理由を説明するものです。

ある日、琵琶湖の湖畔で若者が子供たちにいじめられていた小さな蛇を助け、湖に放してやりました。その夜、若者のもとに美しい娘が訪れ、二人はやがて夫婦となり、子を授かります。しかし、娘は「産屋を絶対に見ないでほしい」と言い残し、産屋に入りました。心配した若者が覗くと、そこには大蛇が子に乳を与えている姿が。実は、娘は琵琶湖に棲む龍神の化身だったのです。

日本の龍神の化身の娘が子供を育てているイラスト(dream-machineで作成)

正体を知られた龍女は、子のために自らの両眼をくり抜いて乳代わりに残し、琵琶湖に帰りました。子は眼玉を舐めて育ちますが、やがて眼玉を使い果たしてしまいます。盲目となった龍女は若者に「三井寺の鐘を鳴らし、子とあなたの無事を教えてほしい」と願い、以来、若者は朝夕に子を抱いて鐘を撞き続けたといいます。この伝説から、三井寺では毎日17時に「三井の晩鐘」が鳴らされ、龍女に子と里の安寧を伝える習慣が生まれたとされています。

特に大晦日の除夜の鐘では、108回の煩悩の数に縛られず、多くの参拝者に撞く機会が与えられます。これは、龍女の供養のため、より多くの鐘の音を響かせるためとされ、龍神の霊力を強めると信じられています。梵鐘の頂部には二匹の龍頭があり、女竜には目玉がないとされ、この伝説を象徴しています。

三井寺の梵鐘と文化的重要性

三井寺の梵鐘は、単なる宗教的道具を超え、歴史や文化、そして地域の物語を体現する存在です。「三井の晩鐘」の音は、東洋の基本音階である「ラ」の音を基調とし、四分の一ほど低い独特の響きが特徴です。これは、長年の梵鐘製作の技術が集約された結果であり、その音色は訪れる人々に心の平穏をもたらします。

また、三井寺は「不死鳥の寺」とも呼ばれ、度重なる焼き討ちや秀吉による寺領没収などの苦難を乗り越えてきました。 梵鐘もその歴史を反映し、初代の「弁慶の引摺り鐘」は争乱の中で傷つきながらも寺に戻り、二代目の「三井の晩鐘」は龍神の伝説とともに地域の人々の信仰を集めています。これらの物語は、琵琶湖と三井寺が古来より特別な場所であったことを示しています。

訪れる価値のある三井寺

三井寺(園城寺)仁王門 2019/04/06撮影

三井寺を訪れるなら、ぜひ「三井の晩鐘」を撞いてみてください。鐘楼の隣で冥加料を納めれば、誰でもその美しい音を響かせることができます。また、霊鐘堂で弁慶の引摺り鐘を間近で見ることもおすすめです。琵琶湖を臨む境内は、春の桜や秋の紅葉とともに、幻想的な雰囲気を楽しめます。

三井寺の「三井の晩鐘」は、ただの音風景ではありません。それは、龍神の悲恋、弁慶の怪力、そして地域の歴史が織りなす物語の結晶です。琵琶湖の湖畔で響くその音は、過去と現在をつなぎ、訪れる人々に深い感動を与えます。次回の滋賀旅行では、ぜひ三井寺を訪れ、伝説の鐘の音に耳を傾けてみてください。

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