大津に落ちた影:戦時中の滋賀県大津市に落とされた模擬原爆「パンプキン」の真実

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1945年、太平洋戦争末期の日本は、連合国による空襲の激化に直面していました。その中で、滋賀県大津市に投下された一発の爆弾が、歴史の闇に埋もれながらも、深い爪痕を残しました。この爆弾は「パンプキン爆弾」と呼ばれ、長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」の模擬爆弾として使用されたものです。本記事では、パンプキン爆弾の背景、その大津市での投下、そしてその影響について詳しく掘り下げます。

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パンプキン爆弾とは何か?

パンプキン爆弾は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が開発し、日本各地に投下した模擬原爆です。正式名称は「1万ポンド軽筒爆弾」(Light-case, 10,000-pound weapons)で、長さ約3.3メートル、重量約4.5トン、カボチャのような丸みを帯びた形状と橙黄色の塗装から「パンプキン」という名が付けられました。この爆弾は、長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」とほぼ同一の形状・重量を持ち、核物質の代わりにTNT火薬やコンクリート混合物を充填したものでした。

その主な目的は、原爆投下のための訓練とデータ収集でした。ファットマンは従来の爆弾と異なり、独特の形状により空気抵抗が大きく、落下軌道が不安定になる可能性がありました。そのため、アメリカ軍はB-29爆撃機の乗員に、爆弾の投下技術や回避行動を習得させる必要がありました。また、原爆を正確に投下するため、昼間の目視による少数の編隊飛行を前提とした訓練が必要とされ、日本側に異常に気づかれないよう、少数機による攻撃に慣れさせる意図もあったとされています。

パンプキン爆弾は、1945年7月20日から8月14日にかけて、日本全国18都府県30都市に計49発が投下されました。この訓練は、広島・長崎への原爆投下を成功させるための「フェーズI」と、戦後の効果検証を目的とした「フェーズII」に分けられ、全体で約400人の死者と1300人以上の負傷者を出す悲劇を引き起こしました。

大津市でのパンプキン爆弾投下

1945年7月24日早朝、滋賀県大津市の東洋レーヨン滋賀工場(現・東レ滋賀事業場)に、1発のパンプキン爆弾が投下されました。この爆弾は、魚雷などの軍需品を生産していた同工場を標的とし、午前7時47分頃に着弾。爆発はすさまじく、1.5キロメートル離れた場所でも爆風が感じられるほどでした。記録によると、この攻撃で16人が死亡し、104人が重軽傷を負い、滋賀県下で最大の空襲被害となりました。

当時、工場では学徒動員された生徒や従業員が働いており、被害者の多くは若い労働者でした。3歳だった桝本和子さんは、爆発の大きな音と煙が上がる光景を今も鮮明に覚えていると証言しています。「朝7時くらいだったと思うんですけど、ものすごい音がした。大きな煙が上がったから、あそこに爆弾が落ちたんやなと思いました」と語る彼女の言葉は、幼いながらもその衝撃の大きさを物語っています。

投下を担当したのは、第509混成部隊に所属するB-29「ストレートフラッシュ」で、機長はクロード・イーザリーでした。この機体は、広島への原爆投下の気象観測任務にも関与したことで知られています。イーザリーは「天才パイロット」と称されながらも、皇居への攻撃を独断で行うなど、命令違反の行動も記録されています。 大津への投下は、訓練の成果として「優秀」と報告され、爆発直後の写真も残されています。

被害の実態と記憶の風化

大津市でのパンプキン爆弾の被害は、広島・長崎の原爆被害の規模に比べると小さいものの、地域住民にとって忘れがたい悲劇でした。池田廣さん(当時、瀬田工業高校2年生)は、学徒動員で工場にいた際、警戒警報を聞いて防空壕に逃げ込み難を逃れましたが、爆発後の現場は「修羅場」と表現するほどの惨状だったと語ります。救助活動を行う警察官の姿が印象に残り、戦後数年間はノイローゼに悩まされたといいます。

また、松浦儀明さんの姉・治子さんは、16歳でこの爆撃により命を落としました。母の胸騒ぎを振り切って出勤した治子さんの遺体は見つからず、赤いガマ口だけが発見されました。松浦さんは「姉が生きていれば今、79歳。何を話したでしょうかね」と、亡魂を偲びながら語ります。

しかし、この事件の詳細な記録は乏しく、戦後の混乱や広島・長崎の原爆被害の大きさに埋もれてしまいました。東レ滋賀事業場には慰霊碑もなく、正確な着弾地点も長らく不明のままでした。昭和31年に発行された同社の記念冊子に被害状況が記載されている程度で、公式な記録は限られています。 近年、朝日新聞が報じたところによると、東レ社内の一次資料が発見され、被害の詳細が明らかになりつつありますが、依然として全容の解明には至っていません。

記憶の継承と現代への教訓

パンプキン爆弾の存在は、戦後長らく一般に知られることがありませんでした。1991年、愛知県の「春日井の戦争を記憶する会」がアメリカ軍の文書を調査したことで、その実態が明らかになり始めました。 滋賀県でも、2012年に開館した滋賀県平和祈念館にパンプキン爆弾の実物大模型が展示され、2024年7月24日には大津市浜大津の旧大津公会堂で「県内の模擬原爆被害とその証言を聞く会」が開催されるなど、記憶の継承に向けた取り組みが進められています。

大津市歴史博物館では、2015年の企画展「戦争と市民」で、パンプキン爆弾の実物大模型を展示し、戦時中の市民生活と戦争の影響を伝えました。学芸員の樋爪修氏は、戦争の悲惨さだけでなく、平穏な生活が戦争協力に染まっていく怖さを伝えることを重視しました。しかし、展示では日本人以外の被害者にも言及が不足していたとの反省もあり、戦争の多面的な影響を伝える難しさが浮き彫りになりました。

パンプキン爆弾の投下は、単なる訓練のための行為ではなく、実際の被害を生み出した戦争行為でした。全国で約1600人以上の死傷者を出し、広島・長崎への原爆投下の「予行演習」として日本全土を「実験場」にしたアメリカの核戦略の一端を示しています。 さらに、8月14日、広島・長崎への原爆投下後にもパンプキン爆弾が投下された事実は、戦争が続けばさらなる原爆投下が計画されていた可能性を示唆します。

現代へのメッセージ

2025年、戦後80年を迎える今、戦争体験者の高齢化が進み、直接の記憶を語れる世代が減少しています。NPO法人「戦争体験を語り合う会」の宮川進理事長は、「記録が残っていない混乱期を考慮しても、必要と判断した人が語り継ぐことが重要」と述べています。 大津市でのパンプキン爆弾の記憶も、体験者の証言や地域の取り組みを通じて後世に伝えられるべきです。

パンプキン爆弾の歴史は、戦争の非人道性と、核兵器の開発・使用に至る過程の恐ろしさを教えてくれます。現代においても、核兵器の脅威や国際紛争のリスクは存在します。滋賀県大津市での悲劇は、平和の尊さを再認識させ、核兵器のない世界を目指すための警鐘となるでしょう。

大津市歴史博物館では、2025年8月31日までパンプキン爆弾の実物大模型の展示が続いています。 この展示を訪れ、過去の悲劇を学び、平和への思いを新たにする機会にしてほしいと思います。戦争の記憶が風化する中、私たち一人ひとりが歴史を学び、未来に繋げる責任を担っているのです。

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