「瀬田橋を制する者は天下を制す」
この言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川に架かる一本の橋、**瀬田唐橋(せたのからはし)**の重要性を物語る言葉です。古来より、この橋は京都へと至る交通の要衝であり、軍事上の最重要拠点でした。そのため、日本の歴史が大きく動くとき、その舞台にはいつも瀬田唐橋の姿があったのです。
今回は、単なる美しい橋というだけでは語り尽くせない、数々の英雄たちのドラマが刻まれた瀬田唐橋の奥深い歴史と魅力に迫ります。
◆ 瀬田唐橋とは?基本情報と名前の由来

まずは、この橋の基本情報から見ていきましょう。
- 場所: 滋賀県大津市瀬田
- 河川: 瀬田川(淀川水系)
- 概要: 琵琶湖から流れ出る唯一の川である瀬田川に架かる橋で、古くから「日本三名橋」や「日本三古橋」の一つに数えられてきました。現在の橋は1979年(昭和54年)に架け替えられたものですが、そのデザインは木造だった頃の面影を色濃く残す擬宝珠(ぎぼし)が特徴的な、風情ある姿をしています。
では、なぜ「唐橋」という名前なのでしょうか。これには諸説あります。
- 唐(中国)の最新技術で作られた橋だからという説: 古代、大陸からの先進的な技術を用いて架けられたことから、その素晴らしさを称えて「唐橋」と呼んだという説。
- 「韓橋(からはし)」が転じたという説: 古代朝鮮半島からの渡来人である伽耶(から)の人々が関わって架けられた、あるいはその方面への玄関口であったことから「韓橋」と呼ばれ、それが転じて「唐橋」になったという説。
いずれの説も、この地が古くから大陸との交流点であり、重要な場所であったことを示唆しています。
◆ 歴史の転換点はいつもここに。瀬田唐橋を巡る戦い
瀬田唐橋の歴史は、日本の戦乱の歴史そのものと言っても過言ではありません。京都の喉元に位置するこの橋は、東から都を攻めるにも、都から東へ逃れるにも、必ず通らなければならない場所でした。橋を確保できるか、あるいは破壊して敵の進軍を食い止められるかが、戦の勝敗を左右したのです。
古代最大の国家内乱「壬申の乱」(672年)
瀬田唐橋が歴史の表舞台に最初に登場するのが、古代史上最大の内乱とされる壬申の乱です。天智天皇の跡継ぎを巡り、息子である大友皇子(おおとものみこ)と、弟である大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が激突しました。

東国で兵を挙げた大海人皇子軍は、都のある近江大津宮を目指して進軍。迎え撃つ大友皇子軍は、瀬田唐橋を最後の防衛ラインとしました。壮絶な戦いの末、橋の上で激戦が繰り広げられ、ついに大海人皇子軍が勝利を収めます。この戦いの勝利によって、大海人皇子は天武天皇として即位し、強力な中央集権国家の礎を築きました。日本の国の形が定まる、まさにその転換点にこの橋はありました。
平安の栄華と動乱「源平合戦」(1180年、1184年)
平安時代末期、武士の世が始まろうとする源平の争乱でも、瀬田唐橋は二度にわたり重要な戦場となりました。
一度目は、以仁王(もちひとおう)の挙兵(1180年)です。平清盛率いる平家打倒を掲げた以仁王は、老将・**源頼政(みなもとのよりまさ)**と共に宇治で戦いますが、敗れて南都(奈良)へ落ち延びようとします。その際、平家軍の追撃を食い止めるため、瀬田唐橋の橋桁を数間にわたって取り外して抵抗しました。しかし、多勢に無勢。平家軍に川を渡られ、頼政は平等院で自刃を遂げます。彼の奮戦は、後の源氏による平家打倒の狼煙(のろし)となりました。
二度目は、木曽義仲(きそよしなか)の最期(1184年)です。破竹の勢いで平家を都から追い落とした木曽義仲でしたが、後白河法皇と対立。今度は源頼朝が派遣した源範頼・義経の軍勢に追われる身となります。義仲は瀬田唐橋と宇治橋で最後の抵抗を試みますが、ここでも義経の巧みな戦術の前に敗れ、近江の粟津(あわづ)で討ち死にしました。「朝日将軍」とまで呼ばれた英雄の、あまりにも儚い最期でした。
室町・戦国時代の攻防(1582年など)
その後も、南北朝の動乱や応仁の乱、そして戦国時代に至るまで、瀬田唐橋は数えきれないほどの戦の舞台となりました。
特に有名なのが、本能寺の変(1582年)の後です。主君・織田信長を討った明智光秀は、中国地方から驚異的な速さで引き返してくる羽柴(豊臣)秀吉の軍勢を迎え撃つため、瀬田唐橋を焼き落として守りを固めようとしました。しかし、秀吉の進軍は光秀の想定をはるかに超える速さであり、橋の修復も間に合わず、光秀は山崎の戦いで敗れ去ります。もし、ここで光秀が瀬田川の防御を固める時間があれば、歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。
◆ 伝説の世界へ。英雄・俵藤太と龍神の物語
瀬田唐橋は、戦の舞台としてだけでなく、神秘的な伝説の舞台でもあります。その代表が、「俵藤太(たわらのとうた)の百足(むかで)退治」伝説です。
平安時代の武将・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、またの名を俵藤太が瀬田唐橋にさしかかると、橋の真ん中に大きな大蛇が横たわっていました。しかし、豪胆な藤太は少しも臆することなく、大蛇を踏みつけて渡ってしまいます。
その夜、藤太の元に美しい女性が現れます。彼女は、昼間の大蛇が姿を変えた瀬田川の龍神一族の者だと名乗り、「どうか三上山(みかみやま)に住み着き、我らを苦しめる大百足を退治してください」と懇願します。
藤太はこれを快諾。見事に大百足を弓矢で射殺し、龍神からのお礼として、米が尽きることのない不思議な米俵や、尽きることのない絹の巻物などを授かったとされています。この伝説から、秀郷は「俵藤太」と呼ばれるようになりました。この物語は、瀬田唐橋に勇壮で幻想的な彩りを添えています。
◆ 現代の瀬田唐橋〜景勝地、そして生活の道へ
江戸時代に入り、世の中が平和になると、瀬田唐橋は軍事拠点としての役割を終え、東海道五十三次の一部として、人々の往来で賑わう交通の要衝へと姿を変えました。その風光明媚な景色は多くの人々を魅了し、歌川広重の浮世絵『近江八景』の一つ、「瀬田の夕照(せきのせきしょう)」として描かれ、全国にその名を知られることになります。
現在の瀬田唐橋は、かつての戦乱の面影はなく、穏やかな時間が流れています。地元の人々にとっては、通勤や通学に使う日常の道であり、散歩やジョギングを楽しむ憩いの場です。周辺には、紫式部ゆかりの石山寺や、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る**建部大社(たけべたいしゃ)**など、歴史的な名所も点在しています。

橋の上から眺める夕日は、今も昔も変わらず、瀬田川の水面を黄金色に染め上げます。幾千もの魂が駆け抜けていったこの橋に立ち、悠久の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
瀬田唐橋は、単なる川を渡るための建造物ではありません。それは、日本の歴史そのものを見つめ続けてきた「生き証人」なのです。この橋を渡る時、あなたはただ川を越えるだけでなく、時空を超えて、日本の歴史のドラマの中を歩いているのかもしれません。



